『オカルト』

 『オカルト』は、おそらく今世紀最大の破壊力を持つ作品だ。
もう、その破壊力たるや、あさま山荘をブチ壊した鉄球をも凌ぐパワーの、まさに破壊の鉄球〜天地無用バージョン〜といった具合。
こんな素晴らしい映画が我が国で作られたことに喜びを隠せない。
誰も到達できない圧倒的芸術として、邦画史に残すべきだろう。


しかしながら、何がそんなに凄いんだと聞かれると困ってしまうのも事実。
なぜなら、この作品について少しでも本気で語れば、間違いなくキチガイのタワゴトだと思われてしまうからに他ならない。


ぶっちゃけ、わけのわからない内容の映画だった。
アタマのオカシイ人たちがいろんな奇行を繰り返し、最後にはみんなで報われない死を迎える感じ。


しかし、この映画を見てからというもの、俺の付近でさまざまな奇跡が起こりだしたのだ。


たとえば、カミサンに隠れてオナニーしていると、エロDVDのあえぎ声に混じって「す・か・と・ろ・じ・い」などという意味不明な声が聞こえたり、部屋で原稿をシコシコ書いているはずだったのに、気付いたら思いっきりチンチンをシコシコしていたり。


奇跡のおかげで、俺の今までのウンコ丸出しな人生にも、大きな使命感みたいなものを感じるようになった。
忘れかけていた、オナニーに対する情熱を思い出させてくれたのだ。
これはもう、この作品が神様による「お告げ」だったのだと言わざるをえない。


「お告げ」の最終目標はもちろん、すすきの交差点のド真ん中で全裸でオナニーをするというもの。
これを成し遂げたとき、俺は神の世界へと導かれるのだ。


多くの一般市民の前での精神的リビドーを味わった後、ド派手に射精、ついでにウンコももらしてみる。
その瞬間に俺の存在、また、それを目撃した不特定多数の民衆たちはこの世から消滅する。
そう。神の世界へと旅立つことができるのだ。
俺は選ばれし神の使途として、すすきのに降臨するのだ!




そんなこんなで『オカルト』とは、まさにこういった発言を本気でのたまう人々を追ったフェイクドキュメンタリー。
まあ、形式的には始終ドキュメントスタイルを崩さずにやりきっているが、ハッキリ言って過剰な演出が多すぎて、序盤からすでにただの悪ノリと化しているのだが。


とにかく、フェイクドキュメントというスタイルを逆手にとった手法が斬新(というかこれしかやりようがなかったとも言えるが)。
予算がない、ストーリーがない、俳優がいない、というネガティブな部分を、すべてチカラ技でプラスに変えている。
インタビューやゲリラ撮影による臨場感や破綻したエピソード同士をムリヤリつなげようとする強引さ、シロウトが素でのたまうセリフまわしなど、すべてにおいて不快極まりないのだ。


不快感さえあれば、この作品は成功したも同然。


たたみかけるように不快な演出が続出して、最後はこれ以上ないほど不快な映像で幕を閉じるという徹底した不快っぷり。
俺は感動せずにはいられなかった。


そもそも、芸術とは一種の精神的パワーであるからして、見る者の心になにかしらの傷跡を残せなければ意味がない。
最近の「娯楽」や「癒し」にこだわった生ぬるい作品(映画、音楽問わず)なんてものは芸術でもなんでもないじゃないか。


現実で起きている耐え難いほどの陰惨な出来事。
そういった悲劇を映画化することで、見えないものがハッキリと見えてくる。
不快なモノを見れば、地獄はすぐそばにあるということを実感できるからだ。


『オカルト』とはいわゆる「電波」である。
誰かに見られている気がするとか、この世界は何者かに管理されているとか、そういった壮大なものから、大勢いる場所で孤独を感じるとか、今年は厄年だとか、俺は雨男だとか、そんな小さいことまで、すべては電波的発言なのだ。
我々は、意識していないところで多くの電波発言をしている。


人間とは電波な生き物なのであり、そんな人間たちが生活する社会は、当然のように日常的に電波が根付いている。
それはもちろん太古から行われた、呪術的な儀式や生贄、宗教戦争にも通じるのである。
つまり「神のお告げ」で犯罪が起きるのは必然なのだ。
なんなら、人間すべての言動が「神のお告げ」によって引き起こされているのだ。


『オカルト』のメッセージとはまさにそこ。
「いやー電波って、いろいろ面倒起こしてくれるよね」といった、社会への素直な感情。


この作品は、極めて初歩的な人間的愚行をストレートに取り上げた究極の人間ドラマなのである。