『ドラゴンボール エボリューション』

ドラゴンボールエボリューション。ドラゴンボールエボリューション。
ドラゴンボールエボリューション。ドラゴンボールエボリューション。
ドラゴンボールエボリューション。ドラゴンボールエボリューション。
ドラゴンボールエボリューション。ドラゴンボールエボリューション。


無意味かつヤケグソぎみに「ドラゴンボールエボリューション」を連続打ちしてみても、なんの問題解決にもならない。
しかしながら、この映画の圧倒的クソっぷりを文章で表現するには、作品以上に無意味でバカバカしい行為をする以外に道はないのだ。


なぜ、ここまで酷いシロモノが完成(完成しているのかすら疑問だが)し、全国公開するに至ったのか。
なぜ、最初から誰もが「絶対クソにきまってる」とわかりきっていたこの映画を、俺は周囲の反対を押し切ってまで先行上映に出向いたのか。
なぜ、俺はこの作品を楽しむことができなかったのか。
そういった『ドラゴンボール エボリューション』を取り巻く数々の謎を解明するのが、運悪く劇場で鑑賞してしまった我々の背負った宿命(というか呪い)なのである。


この作品を「ゴミ」と言って切り捨てたとして、それで鑑賞者のダメージが少しでも軽減されるわけではない。
鑑賞中の絶望感と上映終了後の罪悪感。
心に大きなキズを負ってしまった鑑賞者にとっての唯一の慰めとはなにか。
それは自分に、この作品を観に行ってしまう憐れな犠牲者を最小限に抑えるための、使命が与えられたと信じることである。


「絶対に映画館に行ってはならない」
「どうしても観たいのであれば誰も誘わず、ひとりで鑑賞しろ」


これらの約束事を全人類に伝える使命だ。


とにかく、この作品はもはや「ドラゴンボールじゃない」とかそういったレベルの話ではなく、映画として成り立っていない。
この作品に関わった人間全員が例外なく、自分のやっている作業に関心が無いのである。
監督や脚本家などの制作スタッフはもちろん、俳優たち、音楽、出資者、プロモーター、そして映画館。
なにからなにまでサイを投げている。


たとえば、電話で友人としゃべっているときに、手持ち無沙汰で目の前のメモ帳に無心でボールペンを走らせることがある。
話に夢中になっているので無意識下の行動なのだが、電話が終わってそのメモに描かれた混沌とした落書きに思わず「ナンジャコリャ?」と驚愕してしまう。
そのどーしようもない落書きこそが『ドラゴンボールエボリューション』。


また、セックス中につい気持ちが入りすぎて早々とイッてしまいそうなときに、射精をガマンするために何か余計なことを考えようとする。もう箸にも棒にもかからないような意味のないことを思考しながら、必死になって腰を動かす。
そのものすごく意味不明な思考こそが『ドラゴンボールエボリューション』。


つまるところ『ドラゴンボールエボリューション』に、作り手の意思など皆無なのだ。
誰もがそっぽを向いた状態で作られた作品を、鑑賞者である我々が真剣に楽しめるわけがない。
関わった者すべて(鑑賞者も含む)が「やっちまった感」にさいなまれる『ドラゴンボールエボリューション』。


もちろん面白かった部分がなかったとはいわないが、総合的な結論を言わせてもらうと、観る価値など微塵もない映画だ。