『エグザイル/絆』

 ジョニー・トー監督が撮る映画の時代遅れのダサさが好きだ。
ストーリーやキャラ設定はもちろん、演出やセリフ、音楽やなんでもないヴィジュアルですらひたすらダサい。
ダサくてアツイ。
そしてそのダサさがとてつもなくカッコイイ。


これが確信犯的なダサさなのか、あるいは根本的に監督本人のセンスがダサいのかはわからない。
しかし、トー監督の作品は昔からダサいのである。


それはたぶん時代遅れとかそういった問題ではなく、人間としての遺伝子レベルのダサさ。
トー監督の究極ダサ作品である『ヒーロー・ネバー・ダイ』や『デッドエンド暗戦リターズ』。
これらをもし江戸時代に鑑賞できたとしたら、チョンマゲ姿の観客たちはこう言うだろう。


「ダサい!」と。


しかしそのダサさは、決して恥ずかしいダサさではない。
イタイタしいダサさでもない。
「漢」と書いて「おとこ」と読むのと同じくらい、胸にグッとくるダサさなのだ。


トー作品は、男とはダサい生き物なのだということを教えてくれる。
ダサく生きられない自分自身を恥ずかしいとすら思えるのだ。
ハードボイルドとはダサさであり、スタイリッシュとは程遠いオッサン連中の青臭い友情に、観客(主に男)は憧れを抱かずにはいられないのである。


そして、そのダサさゆえにまったく予測できない状況へと展開していくストーリーも魅力のひとつ。
常識を超えたダサさが、作品世界を常識ハズレの世界へと変える。
まさかこんなことが・・・という反則技がガンガン飛び出すのがトー作品だ。
肉じゅばんを着てムキムキ特殊メイクのボディビルダーが悟りをひらく『マッスルモンク』や汚職警官がバナナの皮ですべってころんで拳銃をなくしてオロオロする『PTU』。
どれもこれも、なにかの冗談としか思えない内容だが、すべて真顔で演出しているところが凄い。


新作『エグザイル/絆』も、やることなすこと究極のダサさとトッピョーシの無さに満ちた、最高の作品だった。
主演の4人(アンソニー・ウォンフランシス・ン、ラム・シュー、ロイ・チョンといったいつものメンバー)の圧倒的ダサさはもはや芸術である。
少年時代からの友人同士が、黒社会で敵対しているという設定自体があまりにもダサいではないか。
そして『ザ・ミッション』以降、神がかり的な緊張感を作り出している銃撃戦シークエンス。
これはもちろんダサさが生み出す緊張感に他ならない。
ダサイからこそ、突如としてはじまる殺し合いにただならぬ緊張感が生まれるのだ。


『ブレイキング・ニュース』での市街戦や『PTU』でのわけのわからない銃撃戦、『エレクション』での突然のお宝争奪戦など、敵も味方もズッコケな状態で展開する殺し合いほど、恐ろしいものはないのである。


ダサさと緊張感の絶妙なバランスのなか展開する予測不能な人間模様。
これこそがジョニー・トーワールドなのだ!