『片腕マシンガール』

 井口昇監督の低予算アクション映画『片腕マシンガール』。
この作品は、個人的にはまったく面白くない映画だった。


でも実は好きだったりする。
「好き」と「面白い」は別なのだ。
物語も、脚本も、発想も、特殊効果も、演技も、基本的には陳腐で安易である。
よって俺は、この作品を手放しで「傑作!」などと言うつもりは毛頭ない。


ではなぜこの作品が好きなのかというと、それはズバリ!自分でもよくわかんないのである。
俺はこの作品を観て、まるでハーシェル・G・ルイスの作品を見た時のような、甘酸っぱい懐かしさに襲われてしまったのだ。
もちろん初期のルイス作品である。
ルイスといえば、スプラッタ映画の第一人者であり、才能もセンスもない、女の裸と人殺しのためだけにストーリーが存在しているような変態映画の監督である。
ルイス映画の残酷シーンには圧倒的なバカバカしさが漂っていた。
人間を思いっきりバカにした殺人シーンの応酬。
俺はそんなルイス映画が大好きだった。


もうひとつ、ルイス作品には、直接的ではないが一種のスカトロジーに似た精神があった。
人間を容赦なくズタズタに切り刻み、内臓と血で飾りつけるその殺人シーンは、ウンコの出てこない血のスカトロだった。
「スプラッタ」という言葉はここから生まれ、世間に浸透したのだ。


片腕マシンガール』がなぜ素晴らしいのか。
そう。もうすでにお気づきだろう。


それはスカトロジーがメジャー化した瞬間を目にすることができるからなのだ!


H・G・ルイスはその才能の無さゆえに映画界から消えたが、サム・ライミピーター・ジャクソンスピルバーグ、P・バーホーベン、みんなスカトロジーをポップに表現することで認知された監督たちである。
映画ファンたちは彼らの作品を観て、スカトロジーがメジャー化する瞬間に立ち会った。
もちろん鑑賞者誰もがそれを意識したわけではない。
彼らの作品を観て得る快感が、スカトロジーを起源としたものだとは認めたくない者もいるだろう。
しかし、少なくとも俺はその瞬間を認識した。


サム・ライミが『死霊のはらわた』で見せたスカトロジー、P・ジャクソンが『バッド・テイスト』で見せたスカトロジースピルバーグが『レイダース』で見せたスカトロジー、バーホーベンがほとんどの映画で見せまくっているスカトロジー


スカトロジーがスクリーンに現れる瞬間こそが、映画ファンにとっての至福の瞬間なのだ。
そして、我々は井口昇という報われない青春時代をおくった変質者が撮ったこの作品で、まじりっけ無しのスカトロジーと出会う。
その事実こそが、この作品に奇跡ともいえる高級感を与えているのである。


ここまで言っておきながらも、やはりこの作品は俺にとって面白くもなんともない作品だ。
それはただ単順に、俺が井口昇監督を過大評価しているからに他ならない。


井口監督の短編映画『クルシメさん』や『恋する幼虫』は、監督の純粋な【童貞視点】がもたらす痛々しさや孤独感が生々しい、青春映画の金字塔だった。
そして、彼が撮った数々のアダルト作品にも、同様の純粋さが漂っていた。
スカトロビデオにさえ、純粋さがウンコとともにあふれ出ていた。


しかし『片腕マシンガール』においては、その純粋さが邪魔なのである。
なぜならこれが復讐の物語だからだ。
「復讐」は井口監督の専門分野じゃない。
井口監督はいじめられてこそ輝く人なんだ。
「いじめられっこ」が「いじめっこ」に復讐なんかしちゃダメだ。


俺は井口監督の描く痛々しい青春が見たい。
ウンコや血やゲロや内臓が飛び散る青春映画を。
復讐なんてもうやめよう。
井口監督はメジャーで十分通用する力を持っている。
しかし、それゆえに有り余るスカトロジーを発散できずにいるのだ。

とにかく、やっぱりよくわかんない。