『紀元前1万年』


 ローランド・エメリッヒ監督の撮る作品を観ると、俺はいつも感心してしまう。
巧みなストーリーテリングや地に足ついた展開、そして考え抜かれたキャラ設定。
ド派手な映像ばかりがアピールされ、「フタを開ければ安易なドラマのカラッポ映画」などと酷評される哀れな境遇にも関わらず、この監督は自らのスタイルを変えようともせず、一定のペースで大作を撮り続ける。

俺が思うに、彼は映画ファンの存在などまるっきり無視して映画を撮っているのかもしれない。
あるインタビューで、「僕はみんなが楽しめる作品を作りたい」みたいなことを言っていたエメリッヒ監督。
彼の言う「みんな」とは、つまりは「アホ」のことであり、エメリッヒはあえて「アホ」でも理解可能な「カラッポ」作品を心掛けて撮っているのではないか?


そう考えると、エメリッヒ監督の作品は一見「カラッポ」でありながら、それは計算された「カラッポ」であり、ゆえに「カラッポ」ではないという結論に至る。
出世作となった『スターゲイト』や『インデペンデンスデイ』、『ゴジラ』、『パトリオット』、『デイ・アフター・トゥモロー』。
これらの映画は「派手なだけで中身の全く無い作品」として、数多くの映画ファンたちから総スカンを食らったが、実は相当良く出来た娯楽作だった。
酷評した映画ファンの多くは「中身の無さ」を指摘した。
これはまさにエメリッヒ監督の狙い通りなのではないだろうか。


それ以外の批判の大半は「『インデペンデンスデイ』の宇宙人のビジュアルに萎えた」とか「あんなのゴジラじゃない」とか、『紀元前1万年』に関して言えば「時代考証を無視してる」などという勝手な意見が目立っていた。
宇宙人なんてもともと想像上の生き物なんだから、ビジュアルがどーこー言う筋合いなど無い。
作り手が「宇宙人です」と言えば、それが宇宙人でいーじゃん。
紀元前1万年』に至っては、紀元前1万年のことなんて知りもしないクセに時代考証のハナシを持ち出すなと言いたい。
「そういった勝手な言い分を乗り越えたところで映画を観てくれ」と言うのは無理な話なのだろうか。


実を言うとそのへんも、エメリッヒ監督は意図して作っている。
「アホ」をメインとした演出を心掛けているエメリッヒは、わざと宇宙人のビジュアルをわかり易いイカみたいなデザインにしたり、紀元前1万年にピラミッドを出してみたりしたのだ。
エメリッヒ作品の登場人物が、わかり易いマンガみたいなキャラなのも納得がいく。
展開が大味なのも、映像が派手なのも、クライマックスの過剰な盛り上がりも、すべて「アホ」のためで説明がつくのだ。


頭が良いフリして映画を作るヤツはたくさんいるが、頭が悪いフリをするクリエイターは少ない。
しかも、バカな映画をバカバカしく作るのではないとこが凄い。
エメリッヒ監督は、バカな作品をマジメに撮っているように見せることが出来る素晴らしい監督なのだ。
「もうちょっとハジければバカ映画なのに」という微妙なところで抑えるので、映画ファンには「つまらない」というレッテルを貼られているが、これがわざとだと知ったらエメリッヒの評価はグンと上がるはずだ。
エメリッヒ監督を評価しているという部分で、俺はやはり「映画ファン」ではないのかもしれない。
「つまらん」と言われ続けながらも、ハリウッドで活躍し続けるエメリッヒ監督の魅力を分析しようとする映画ファンが少ないのは悲しい。


そんな感じで『紀元前1万年』なのだが、これもエメリッヒ監督のまさに狙い通りの傑作だった。

ストーリー展開が文句無く素晴らしい。
まず、舞台が紀元前1万年である理由がまったく無い。
設定そのものがハッタリで驚愕した。
そして無駄なモノをことごとく排除したスリムなメインストーリーに、無駄とも思えるくだらないサブストーリーをムリヤリ折りこむこのセンス。
デイ・アフター・トゥモロー』で、展開に全く不必要なオオカミに襲われるシークエンスの挿入に思わずのけぞったのを思い出した。
エメリッヒ監督は、躊躇せずに無駄を省き、そこへ容赦なく別の無駄を挿入する。

毎度そこに感動してしまう。


そして、普通の監督ならば絶対やらないような演出を堂々とやってしまうところも魅力だ。
特に凄かったのは、溺れているサーベルタイガーを助けるという、正気とは思えない主人公の行動を恥ずかしげも無く演出したところだ。
「助けるから俺を食うなよ」というミもフタもないセリフを堂々と言わせるセンス。
このシーンで俺は涙が出そうになった。


やっぱりエメリッヒ監督は凄かった。
そう思わざるをえない傑作。
絶対観るべき作品だ。