『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』感想文


オゲレツアニメシリーズ最新作は、オゲレツアニメシリーズの名に恥じない史上最高のオゲレツレベルで展開するオゲレツ集大成みたいな内容だった。

「オゲレツ」とはもちろん、本能に忠実であるという意味の褒め言葉である。

「序」〜「破」のポップさは身をひそめ、ただひたすら下品でカオスなシーンが延々とつづく。

悲惨で陰鬱、そしてグロテスクな精神的ダメージが観客と碇シンジを襲う。

感想はたったひとこと

「オゲレツゲリオンはダテじゃない」


マイナス1億点/100点満点中


さ、そろそろエヴァンゲリオンが、この無宗教で無教養な我が国におけるたったひとつの「聖なる祭典」であるという事実に皆気付くべきではないだろうか。

エヴァンゲリオンを観て、その混沌を5感で感じて、落ち込んだり気分悪くなったり呆れたり興奮したりボッキしたりと、さまざまな感情&肉体的反応を不特定多数の同士たちと楽しむ。

これはまさに「集団トランス」である。

エヴァンゲリオンが「祭礼」だからこそ、人々はここまで熱狂し、高揚し、そして繋がりあうことができるのだ。

この祭りにおける司祭はもちろん、生粋の特撮マニアでありながら、人間として生きるために大事なことが抜け落ちているような男「庵野秀明」である。

庵野は「愛する」という行為における自身の不信や疑問を、この作品に恥ずかしげもなく投影させているのではないだろうか。

そして、愛を理解できない登場キャラクターたちの行動や思考が、「孤独」を克服できない観客たちとシンクロすることで、エヴァンゲリオンは「祭り」としての機能を得ることができるのだ。

エヴァンゲリオンを鑑賞する。

そのとき、俺たちの世界はひとつになる。

現実の世界における立場や環境は消滅し、鑑賞者たちの体験の共有・融合が生まれる。

孤独から一瞬でも解放され、祭りに身を委ね、それが刺激的であるゆえに、一時的なトランスを感じることができる。

このトランスは、司祭によって認められた聖なる美徳。

次回、『エヴァンゲリオン』は、ついにラストを迎える。

俺たちはまたそこに集まり、名もなき集団となり祭礼を祝うだろう。

エヴァンゲリオンという名の「大いなる乱痴気騒ぎ」を全身全霊で体感するのだ。