『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』

  この作品の素晴らしさは1000字や2000字ではとても語りつくせないし、かといって1万字のスペースを用意されたとしても、そんなものを書く気になど到底なれない(面倒だから)。


ダイアリー・オブ・ザ・デッド』がゾンビ映画の集大成的作品であり、新たな時代のマスターピースとして語り継がれるであろうことは間違い無い。
なぜならこの作品こそが、ロメロ監督が長年ライフワークとして取り組んできた「ゾンビ」シリーズのエピソード1にあたる内容だからだ。


1作目である68年の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/ゾンビの誕生』と、この『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は一心同体である。
つまりこの作品は、ゾンビパニックの始まりを描いている。


常識ハズレな事件の勃発でパニックとなり、ネットやテレビの情報に惑わされて右往左往する人々。
抑え気味の残酷描写と軽すぎる演出が物足りないとの意見もあったが、実はその軽さこそがこの作品のキモであり、情報化社会のパニックそのものの混沌を見事に表現していると感じたのは俺だけだろうか?


インターネットの普及により、今や「情報」そのものの価値が下落している。
世界的な情報も個人的な情報も、ポップな情報もアンダーグラウンドな情報も、テキトーに検索すればテキトーに得られるテキトーな時代。


テキトーな情報が氾濫する中でのサバイバルほどグダグダなものはないのだ。
劇中、生と死の緊迫感に支配されたキャラクターたちは、一見深刻な事態であるような様子を見せておきながら、その言動はどことなくボンヤリしている。
仲間たちが次々とゾンビになっていくのに、誰一人として感情的にならない。


友人が自殺する。
家族がゾンビ化する。
友人がゾンビに襲われている。


普通ならばパニックになってもおかしくない危機的状況で、登場人物たちは一時的にうろたえはするが、次の瞬間には「まぁ、こんなもんでしょ」といったノンキさを垣間見せる。


そう。
この作品にはゾンビ映画特有のパニックが一切描かれていない。
いや、パニックになりながらもどこか冷静な、パニックになりきれない現代の若者達を描いているのだ。


それはいわゆる感情の欠落とかそういった問題ではなく、感情を抑制する方法を自然と体得してしまった現代の子どもたち。ネット社会に生きる者たちのリアルな感情表現なのである。


そして、作品の世界観や展開そのものに終末感がまるで無いところも、やはりそういった現代社会の「軽さ」を表現した結果なのだろう。
過去のゾンビ作品におけるロメロ監督の、不安感や終末感の表現による社会的メッセージ。
この作品では、不安感や終末感を一切排除することで、現代社会特有の気持ち悪さ、精神的混沌を見事に表現しているのだ。


昨今、ゾンビ映画は数多く制作され、大金をかけたメジャー作品としてもその認知度は確立した。
ゾンビ映画」というものがひとつのジャンルとして受け入れられた素晴らしき時代。


しかし、ロメロのゾンビ映画は、今だ「ゾンビ映画」といったジャンルには属さない、独立したゾンビ映画であることを俺は声を大にして言いたい。
ロメロのゾンビは一味違うよ!と。


俺はゾンビ映画が大好きだということを自覚しているつもりでいた。
しかしこの作品を観て、実はゾンビ映画が好きなのではなく、ジョージ・A・ロメロ監督が描くゾンビが好きなのだという結論に至ったのだ。