『28週後』に思うタワゴト

ゾンビ映画が氾濫しています。

別にいいけど。

ゾンビ映画が一般的になり、普通に全国公開され、休日にカップルなんかで鑑賞できちゃうような時代に違和感がないとも言えません。
それは、俺が「ゾンビ映画」に関してネガティブな思い出しかないからであり、今のように「そこそこ面白いゾンビ映画」がいつでも観れる状況をうらやましく感じてるからだと思います。
きわめて個人的な感想ですが「ゾンビ映画」なんてものは本当につまらないものであり、それこそ観るのが苦痛に思えるほどの駄作の集合体でした。
面白い作品といえばジョージ・ロメロという監督が撮った『ゾンビ3部作』ぐらいで、あとの作品はほとんどそれの見よう見まねみたいなゴミ映画。
それでも当時の俺は、何かを探し求めるかのように「ゾンビ」のゴミの山を登りつづけていました。
つまりゾンビ映画ばっかり観ていたということです。
「なぜゾンビ映画を観るのか…?そこにゾンビ映画があるからだ。」などと口走っては、全盛期のレンタルビデオ店で『死体と遊ぶな子どもたち』や『フレッシュイーター』、『ナチスゾンビ』、『レイダース/失われたゾンビ』(スゲータイトル)などのウンコ作品(というかウンコそのもの)を手にして、発狂一歩手前のアクションでレジへと向かっていった覚えがあります。
だから大学受験は全敗しました。
つーか、別にゾンビのせいにするつもりはないんでけどね。

昔、ゾンビ映画は「ゾンビ」が出てくる映画でした。

しかし「ゾンビ映画」が一般的となった現在は、ゾンビ映画っぽかったら全部「ゾンビ映画」として認識される時代となりました。
いわゆる宇宙人が出てくると「エイリアンもの」というレッテルが貼られるのと同様です。
エイリアンてのは、もともとリドリー・スコットさんとダン・オバノンさんとHRギーガーさんが、映画『エイリアン』で創った宇宙生物ですが、一般化された現在は「エイリアン映画」というジャンルが成り立っています。
つまりは何かしらのゾンビ要素(集団で襲ってくるとか感染で人類死滅とかカニバリズムとか)があれば「ゾンビもの」として片付けられるってことです。
つまりゾンビそのものが出てこなくても「ゾンビ映画」と呼ばれる時代なのです。
なにからなにまで「ゾンビ映画」なのです。

そしていまやゾンビ映画はもっともポピュラーなホラーコンテンツであり、誰もが作りたがる題材です。。
若手監督の登竜門だったり、ロメロを敬愛するオタク監督が趣味で撮ったり、有名俳優をキャスティング(ウィル・スミスとか)したり、お正月拡大公開したり、もう大フィーバーです。

そんなゾンビ一色な一般映画界で、頑なに「ゾンビもの」であることを主張しないゾンビ映画が2002年にイギリスから登場しました。

『28日後…』という映画です。

これは非常にセンセーショナルな作品でした。
ゾンビ映画であることを全く匂わせないタイトルと宣伝方法、キャッチコピーの「わずかな未来は始まっている」というのがとても印象的でした。
人類が滅亡する終末感あふれる内容にもかかわらず、ゾンビ映画特有の絶望や恐怖を打ち出さずに、あえて小さな「希望」をアピールしている点が逆に異様ですよね。
そして、血液を媒介とするウィルスが蔓延して人間たちが凶暴化するという設定も、死者が人間を襲う「ゾンビ」とは根本的な部分が違うことを強調しています。
あくまで感染者は人間。ウィルスは凶暴性。犯されるのは精神なのです。
これは「ゾンビ映画」なんかじゃない。監督のダニー・ボイルと脚本のアレックス・ガーランドは常にそれを意識していたに違いありません。

ゾンビ映画」なんてゆう、グチャドロで下品でくだらなくて悲惨な映画とは違うんだ!この作品はもっと高尚で社会的で希望に満ちた物語なんだ!

しかし、そんなご立派な作品スタンスは実は表面上だけのハナシで、実は本作はどっからどう見ても完全なるゾンビ映画であり、どこを切ってもゾンビ丸出しの「金太郎飴ゾンビ」なのです。
なんならロメロの『ゾンビ』以降に作られたどのゾンビ映画よりも、純粋なゾンビ遺伝子を持ったゾンビの申し子的な映画だったのです!ビックリです!
ストーリーがほとんど、ロメロのゾンビ3部作の3作目『死霊のえじき』とおんなじなのです!
そしてロメロの3部作だけでなく、数多くあるロメロ以外の「ゾンビ映画」の中でも良作とされる作品群。たとえば『バタリアン』『スペースバンパイア』『サンゲリア』などの名シーンのオマージュがバンバン飛び出すのです!
そんなゾンビ大好きっ子が嬉々として作った純ゾンビ映画である本作が、「ゾンビ映画」であることを全くアピールしないのはどういう事なのでしょうか。
もしかしたら監督のダニー・ボイルは、この後のゾンビ映画ブームの到来を予感していたのかもしれません。
誰もが手軽に、そこそこの出来のゾンビ映画を観ることが出来る「ゾンビ先進国の増加」。
バカの一つ覚えみたいになんでもかんでも「ゾンビもの」として括られる、この安易でイマジネーションの稀少な世の中に、自分の生み出したかわいいゾンビ映画を放つことは出来ないと。
そこであえて「ゾンビ映画ではありません」とアピールして、恐るおそる放った我が子こそがこの『28日後…』なのです。
素晴らしき親心ではありませんか!
そんな親心を感じ取りながらも、公開当時に思いっきりローデッドのレビューに「ゾンビ映画万歳!」と書いた、この俺の空気の読めなさ具合も素晴らしい。

とにかくそんな「ゾンビ先進国」ニッポンの洗礼は、続編である『28週後』にも容赦無く襲いかかったのでした。
28週後』は案の定、「ゾンビ映画」として宣伝されていました。
鑑賞者の感想レビューなども「ゾンビ映画」というキーワードが必ずといっていいほど使われていました。
それはそれで別にいいんです。
そういう時代なのですから。
ただ、俺は1作目のときの自分の空気の読めなさ具合を反省して、自己満足のためだけにこういった文章を綴っているのです。
ゾンビ映画でいいんですよ。どう見てもゾンビなんですから。

28週後』は素晴らしい作品でした。
脚本がとてつもなくバカで、これはまさに往年のゾンビ映画(ウンコ)を彷彿とさせるパワフルさでした。
主要人物の死にっぷりも前作にも増して、想像を絶するあっけなさ。
人間を凶暴化させるウィルスは作品全体をも凶暴化させて、スクリーンからただならぬ狂気がもんわぁぁぁ〜と放出されていました。
その、もんわぁぁぁ〜とした狂気は、やはり80年代後半のレンタルビデオ全盛期の、あのカオス化したゾンビ映画のラインナップが放つ狂気と同様のものだった気がします。

『28日後…』がゾンビ映画であることを拒否した唯一のゾンビ映画だった事実と、『28週後』の持つ純粋なるゾンビ映画としての自信。
もんわぁぁぁ〜と放出された狂気の中に、ゾンビ映画の奥深さと、クリエイターたちのゾンビ映画への真っ直ぐな姿勢を垣間見た気がしました。


以上 デヴォン山岡でした。